日本で複葉機を自作していたころの飛行機ファン

まだ手探りで自分の飛行機を工夫して試作していた時代

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 米国の実業家で飛行士だったヒューズ(Howard R. Hughes Jr.)は,4人の乗員(Harry H.P. Connor, Lt. Thomas Thurlow, Richard Stoddard and Ed Lund)とともに,ロッキード14Nスーパー・エレクトラ(ライト社製サイクロンGR-1820-G102空冷星型エンジンを2基装備:燃料タンクを増設して1844USガロンにして航続距離5000マイルに伸ばした)に1939ニューヨーク世界博号と名づけて,世界一周早周り飛行を1938年7月10日〜14日に行なって,5年前のWiley Postが実施した世界一周飛行時間を書き換えたのである.
 この飛行では,ニューヨークのフロイド・ベネット飛行場を離陸してリンドバークの大西洋横断時間も半分でパリまで飛び,モスクワ,オムスク,ヤクーツク,フェアバンクス,ミネアポリスを経由してニューヨークに戻ってきた.この飛行の所要時間は3日19時間(91時間)15分で世界一周(1万4672マイル)を実現した(平均速度=206.1mph).これによって一時はヒューストン・ウィリアムP.ホビー空港(ヒューズの出身地)が改名されたが,まだ生存している人の名をつけるのは好ましくないと,もとに戻されるという事件もあった. 
 世界一周飛行に使用した飛行機は,1937年に登場したロッキード社製14Nスーパー・エレクトロで,Hall HibbardとClarence "Kelly" Johnsonを中心とした設計チームが開発したダグラスDC-3旅客機に対抗する双発旅客機だった.ロッキード社が既存のモデル12エレクトラを大型化したものである.着陸速度を低減するためにファウラー・フラップを最初に装備した旅客機となった.
 胴体には3列に客席を配置して40人の乗客と客室乗務員を収容可能とし,翼内に燃料タンク,主翼に補助翼をオプション装備(あとで標準装備となった),フル・フェ−ザリング回転が可能なプロペラを装備していた.試作1号機はプラット&ホイットニー社製ホーネット空冷星型S1E-Gエンジン(875馬力)を2基装備して1937年7月29日に初飛行した.ホーネットS1E-Gを装備したモデル14HとホーネットS1E2-Gを装備したモデル14H2の型式証明を1937年11月15日に取得した.
 こうしてホーネット・エンジンを装備した52機のスーパー・エレクトラが1937年7月から1940年6月までに製造された.20機がモデル14Hとなった(試作機を含めて,ノースウエスト航空に8機,ギニア航空に1機,10機がポーランドのLOT).32機がモデル14H2だった(18機がトランス・カナダ航空で残りは5社の航空会社と1機が役員専用機になった).
 ロッキード社はプラット&ホイットニー社ホーネット2種類,ツイン・ワスプ1種類,ライト社サイクロン5種類のエンジンをモデル14の選択仕様範囲に設定した.

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 ボーイング717はボーイング社では一番小さな双発の中距離ジェット旅客機である.1999年の9月より営業路線に就航しているが,古い皮袋に新しい中身を入れた新世代の旅客機となっている.なにしろ1965年に初飛行した国内線向けの小形ジェット旅客ダグラスDC-9から派生したマクダネル・ダグラスMD-95を合併したボーイング社が欠番になっていた717という型番に付け替えたのだから.
 ジェット旅客機は英国のコメットを含めて第一世代が国際線向けのボーイング707,DC-8,CV-880に続いてボーイング727(3発機)が近距離の国内線向けのジェット機として民間航空会社に受け入れられると,ようやくダグラス社も双発のDC-9をライバルとして投入した.するとボーイング社も2年後には双発の737を投入して民間旅客機のジェット化を一気に実現してしまった.これでターボプロップ旅客機を除くとヨーロッパ市場のジェット旅客機はフランスのシュド社のカラベル(胴体後部にエンジンを装備する形式)以外は消えてしまった.こうしてエアバスとして欧州の航空機メーカーの協同開発によって双発のA300が登場した.
 不思議なことにYS11の後継機とされたYX(150席程度の中距離旅客機)のサイズがボーイング717に近似していることである.ちょうどボーイング社にないサイズの旅客機を日本の通産省が予算をつけて共同開発しようとしたのだろうか.
 短距離を飛び頻繁に離着陸するリージョナル旅客機の上限のサイズにB717は該当する.もちろんボーイング社は,エアバス社のA318の対抗機にB717を仕立てたが,もう役目を果たしたから2006年には生産を終了する予定という,あとはB737のアップデート版で対応することにしたのだろう.
 それにしても,ジェット旅客機の販売数量ベスト3(B737,A300,DC9)にボーイング社が2種類も占めているということは,新しい時代がくるのか,ジェット時代の終わりなのか?

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フランスのルノーがF1のコンストラクター選手権も獲得した.
これで来年のGPレース100周年記念には絶好の冠を手に入れたことになる.
そう同志のタイヤ・メーカーとしてミシュランも同じだ.
ただ残念ながら,フランスGPの開催時期が4月か5月になってしまうことだろう.
 まず,2006年に米国で開催予定のF1GPが7月2日になるらしい.これで英国GPの開催日程がこれまでの7月中旬から変更されることになった.もちろんほかのGPにも日程変更の影響が及ぶのだ.いちばん大きな問題は英国GPと米国GPの中間に予定されていたフランスGPの日程である.なにしろ100年前にフランスのルマン近郊の公道を利用してフランス自動車クラブが1906年6月26,27日に開催した最初のグランプリからちょうど100年目というイベントになるのである.
 米国GPの日程で,フランスGPはドイツで開催されるサッカーのワールドカップの日程との関係で6月18日も7月9日も開催できないからだ.これで6月9日から7月9日まで,つまり6月18日,6月25日,7月9日はワールドカップと日程が競合してしまう.
 まず6月18日はF1日程から見ると,ワールド・カップ・サッカーの3試合が午後3時〜10時30分までTV視聴者を占有してしまうから絶対に避けなければならないことになる.そして6月25日にはサッカーが2試合,7月9日はワールドカップの決勝戦だからF1は視聴率をとれないことになる.米国のインディアナポリスの日程を変更すればいいのだが,今年はインデアナポリスでタイヤの問題があったために移動できないということだ.
 米国のレースの1週間前に行なわれるカナダGPを6月25日に動かせばいいのだが,サッカーのためにそれができない.米国GP1レースのためにすべてを積み込んで移動し,カナダGPを7月16日に開催する日程を組むと,英国GPをこれまでの日程で行なうと,米大陸のレースの合い間にスタッフがヨーロッパ大陸を往復することが必要になり費用が嵩んでしまう.さらにスタッフを10日間も高価なホテル住まいをさせなければならないことになる.これではF1の運営費用がかさんでフランスと英国の主催者がどちらも貧乏くじをひいてしまう.ということで,フランスGPを4月末に開催して,英国GPはモナコの5月28日,ニューブルクリングの6月4日,シルバーストーンで6月11日と3連続開催という日程が予想される.
 
  1906年に開催されたフランスGPに,ルイ・ルノー(Louis Renault)はタイプAKを開発して3台エントリーした.エンジンは4気筒で排気量が13Lの90馬力を装備していた.ルノーAKは,油圧式のサスペンション・ダンパーとミシュラン製リム交換式タイヤを採用した点が長所となっていた.これで1周64マイルのコースを2日間で12周するレースでハンガリー人ドライバーのファレンス・シーズ(Ferenc Szisz)が2位のフィアット(フェリース・ナザロ)に32分の差をつけて優勝してしまった.
 769マイルを平均速度62.88mphで走行したのだが,タイヤがパンクして19回も交換したのだが.
翌年はフィアットに次ぐ2位,1908年はホイル・トラブルにより失格にされたため,それ以後ルノーは69年間モーター・スポーツには参加しなかった.

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 北海道の千歳空港は年間の旅客機乗降客数が1800万人を超えて重要な空の駅となっている.この千歳空港の歴史は,千歳村民の手で整地して造成した滑走路に酒井憲次郎操縦士が操縦した北海1号機が1926(大正15)年10月22日午後1時20分に着陸した出来事から飛行場が始まったという.
 なお空港公園「翼の広場」には,「村民顕彰の碑」,「北海1号機」と「酒井憲次郎操縦士」ブロンズ像が建立されている.
 1926年に千歳飛行場に初めて着陸した飛行機は北海1号機で,小樽新聞社(第2次大戦中の1941(昭和16)年12月に公布された新聞事業令により,1942年10月に当時の札幌市の北海タイムス社,小樽市の小樽新聞社とその他の地方新聞社が合併して北海道新聞社に統合された)の社有機で読者を獲得するための宣伝や広報,取材などに使用された.三菱式R2.2型単発複葉機で旧帝国海軍が使用していた「10式艦上偵察機」の民間改造機である.
 ところで10式艦上偵察機は,旧帝国海軍が三菱内燃機製造(現在の三菱重工業)に大正10年に指示して,英国ソーピース社より招聘した設計技術者ハーバート・スミス技師らに設計を依頼して製作した複座の偵察機だが,すでに完成していた10式艦上戦闘機を大型化したものである.大正12年11月に制式採用された.しかし実際の偵察任務は13式艦上攻撃機に兼務させたため,複式の操縦装置を追加して中間練習機(10式艦上偵察機2型:C1M2)として昭和10年ごろまで使用された.民間にも払い下げられ,新聞社用機,観測機に改造されたものもある.
 なおエンジンは,フランス製のイスパノスイザ水冷V形8気筒300馬力(三菱ヒ式として国産)を装備していた.主翼は木製羽布張りでフラップはついていない,胴体も木製骨組に羽布張り構造の複葉機だった.

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 1950年代中ごろの乗用車は,トヨペット・スーパー,ダットサン・コンパー,オオタ900,プリンス1500,オースチン1200,ヒルマン1400,ルノー750などがあった.しかしこれらの乗用車の価格は,小型の1000ccクラスでも当時の販売価格は100万円程度(1ドル=360円時代)で,まだ平均サラーリーマンの月収が1万円に届かない所得レベルだったから,自家用車として個人で所有するには手の届かない存在だった.
 軽自動車は1947年12月に制定された道路交通取締令の小形自動車第4種に規定され,1948年に2輪自動車以外の自動車という別枠が設定され,全長3m,全幅1.3m,全高2m以下でエンジンは4サイクル350cc,2サイクル200cc以下という規格で,軽3輪,軽4輪車の可能性が見えてきた.しかしこの規格に対応した4輪の軽乗用車を開発したメーカーはなかなか成功しなかった.
 まず先駆者として登場したのは自動車技術者の富谷龍一と志村実が住江製作所で開発したフライング・フェザーだった.試作1号車を1950年に製作し試作5号車まで改良を続け,1955年にようやく量産に移行した.4サイクルOHVエンジン(V形2気筒の350cc/12.5馬力)を後部に搭載した2座席で,19インチのワイヤーホイールに4輪独立懸架を採用したが,3速変速機と425kgの重量で60km/hを実証したが前輪ブレーキがないなどの欠点もあった.年産600台を目標として1955年に開催された第2回自動車ショーに販売価格を38万円として展示したが,48台を製造して終了してしまった.
 1952年には名古屋の中野自動車工業が,新三菱重工業の汎用4サイクル単気筒350ccエンジン(6馬力)を利用して手作業で製作した「オートサンダル」を発表した.オープン・ボディの後部にエンジンを搭載して2人乗りのフリクション駆動だった.試作を繰り返して1954年には水冷2サイクル2気筒240cc(10馬力)エンジンに改良されたが,まだ試作段階で日常の使用に耐えるほどの実用性はなかったようで,200台程度が製造されたが,量産には到らず消えてしまった.
 3番手となったNJも2座席スポーツ・カー・スタイルで,後部に4サイクルOHV(V形2気筒358cc)エンジンを搭載した軽自動車として登場した.赤坂でフィアットの販売をしていた日本自動車が販売したが,前部の形状はフィアット500系に似ていた.しかし1956年には製造を担当していた日本軽自動車(埼玉県川口市)が販売を担当し,さらにエンジンを前に移して通常のFRになり,ロードスター,トラック,ライトバンがシリーズ化された.1956年には車名も「ニッケイ・タロー」に改名したが1958年に製造が中止された.
 エンジンを製造していた日建機械(東京都大田区)がニッケイ・タローを改良した「コンスタック」を1958年1月より発売したが,1961年9月まで145台を販売した.
 ようやく自動織機メーカーから2輪車に進出した鈴木自動車工業(現在のスズキ)が, 1955年に前輪駆動方式の軽自動車(360cc)「スズライト」を発売した.
 2輪車メーカーの鈴木自動車工業が初めて製作した4輪車スズライトは,本格的な軽自動車のパイオニア的な存在となった. 小型乗用車なみのスペースを持ち, 2サイクル・エンジンを前に搭載し前輪を駆動するFWD(前輪駆動)を採用していた.初めて軽自動車を開発する際に参考としたドイツの小型車ロイトLP400(空冷2サイクル並列2気筒385cc)を模倣して軽自動車の車体サイズにまとめたものだった.
 乗用車,ライトバン,ピックアップ・トラックの3タイプを揃えてシリーズ化していたが,乗用車,ピックアップの販売は順調には行かず, 1957年には後部を折り畳み式1座とした3人乗りのライトバンに限定した. ライトバン仕様の「スズライト」も営業的には成功したとはいえないが,初代型は1959年9月まで生産を続けて,約1200台を販売した.これでようやく軽自動車を継続して生産する自動車メーカーとなった.ただスズキの軽自動車が軌道に乗るのはオースチン・ミニに似た形状をした改良型の「スズライト・フロンテ」に移行した1962年以降になってからである.

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